大人の芸術講座 08


バーン・ジョーンズ展

 

 

先日、兵庫県立美術館にバーン・ジョーンズ展を観に行ってきたので、そこで思ったことを少し書きます。

 バーン・ジョーンズは19世紀後半に活躍した画家で、所謂ラファエロ前派と呼ばれています。この頃の絵画は、自然主義的な写実から、より文学性の強い内容へと変わっていきます。バーン・ジョーンズも自ら、自分は「絵画による詩人だ」と語っていたそうで、様々な物語から触発されて、作品を描いています。そのため、物語の本の挿絵を手がけていたくらいです。

 さて、私の感想はと言うと、展示作品も終盤に差し掛かったあたりから、作品がどうも劇画タッチになってきているような気がしてなりませんでした。まるで、現代の超絶技巧で描かれたイラストのような。後半にいくにつれ技術が卓抜となり、彼の物語性の表現というねらいが、絵の中で益々表現されるが故に、逆に劇画風に陥っていくような矛盾を感ぜざるを得なかったのです。その時、「絵

 画は文学と切り離さなければ、その純粋性を保つことはできないのだ。」と、セザンヌが言った言葉を思い出しました。あのゴーギャンでさえ、セザンヌにとっては文学臭を感じるものでした。 

 しかし、これにはいろんな異論があると思います。そもそも、芸術作品は劇画風ではいけないのでしょうか?それはセザンヌなどの純粋造形的な絵画に比べて、劣っているのでしょうか? 実に、難しい問題です。

 こんな例えを考えてみました。

ある小説を読んでとても面白かったのに、それがドラマ化されて映像になったとたんに、なんだかつまらなく感じられた。

文章で読んでいる時には頭のなかで、いろんなふうに想像し、その世界がどんどん膨らんできます。主人公の面影さえ思い描いていきます。しかし、それが画像となり具体化されたとたん、それまで頭のなかで自分の好きなように解釈し、思い描いてきた本のなかの世界がたちどころに限定され、狭められて、かえって興ざめしてしまったということだと思うのです。

 バーン・ジョーンズの問題はそれと少し似ているように思います。物語はあくまで文章のなかで楽しむものであり、物語と絵画が結びつくことは、わかりやすくなる半面、鑑賞者の想像力を萎えさせてしまう。芸術の魔力が人間の想像を超える未知のものを探求するロマンティックな心に憑りつくものであるとするならば、ものがそこにただあることだけを提示するというセザンヌの考え方こそが、最上の絵画であるのかもしれません。 

 はたして、現代の美術家はセザンヌのようにただのりんごや人間を描くだけで、ロマンチックな気持ちにさせてくれる絵をつくることができるのだろうか?